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荒井
私は梅木先生の教室に通い、東洋書芸院にも所属している荒井睦舟と申します。今日、作品の説明を会場にいらっしゃる作者にしていただいたんですけど、やはりその方が私は納得できるんですね。そこで、作者がこの作品をどういう気持ちで書いたのか、そういうものを添えていただけないものかしら、と思ったんです。作品を見ただけでは分からないものが、見る側に何か伝わってくるんじゃないかな、と。その点、こういう気持ちで書いたというものがあれば、見る側は感じ取れるんじゃないかな、ということを思っています。
徳田
私が十数年前、東洋書芸院に最初に出品した時、「どういう風に書けばいいんですか」と大野先生聞いたら「例えば花という字を書くとしたら花という字を書かないで、花から自分が感じるもの、もし愛があったとしたら愛を書きなさい」といわれたんですよ。字を書かないで愛を表現しなさいということなんですね。「そうか花という字を書かなくても、そこに花を見たときに自分が感じる気持ちを正直に書けばいいんだな、紙と筆と墨の3点セットで書けばいいんだ」として書いたことを思い出しました。
鈴木
鑑賞する側として作者に何かを聞きたいというのは「要望」として受け止め、今後の検討課題としたいと思います。ご質問、他の方いかがでしょう?
田中(仮名)
私は見る側として直感的に見るというのを心がけております。余り観念的に見ないで、何が書いてあるかというのを余り考えないで、直感的に感覚として受け取る、というようにしてますけど、どうなんでしょうか?
椎木
私も感覚の勝負だろうと思うんですよね。なにを書かれたかと聞かれるよりも何を感じてもらえるか、ということ。それは作者と違ってもいいと思うんです。鑑賞者の立場に立てば、その作品からどれだけのものを自分が感じてくるか、という第六感を鍛える訓練が必要だと思いますし、制作者の立場からすれば、いろんなものを感じてもらえるような訴えるものをつくって提供していくことが大事だと思うんです。その作品の前に30秒しか立っていなくて退屈するか、1分も2分も立っておれるか、1時間でも座っておれるか、というのがあると思うんで、それはお互いがやはり勉強の場だろうと思います。
伊藤
鑑賞者の立場としたら直感だと思います。それ以外にないですよ。理屈つけたら駄目なんです。見てね、いいと思うものは自分の心に共通のものを感ずるからいいと思うんで、これ駄目だと思うのは、自分の脳の細胞、感覚か何か分からないけれど、その刺激が自分に伝わってこない。いわゆる旧来の書道にしても本当にいいものならば見ていったらね、それが交響曲というか、そういうような「ダーン」とくるもの、あるいは「ワーン」とくるもの、そういう線や全体からくるものが表現できているかもしれない。本当にいいものは、それを聴いて良かったな、聴いているときは音がどうとか、このピアノがどうだということいっていたら、鑑賞になりません。で、僕は直感以外にないと思う。さっきいった聖一国師の遺偈にしても、「パッ」と入ってきた一つの感覚ですよ。それがどうだから、これがいいんだなんて、そんなんじゃないと思いますよ。どんなものでも自分の心に入ってきたら、それはいい作品ですよ。それでいいんじゃないですか。
鈴木
ありがとうございます。
田宮
作品の情報提供という今の話は各美術館の学芸員がいちばん悩んでいるところですね。作家が説明しない代わりに学芸員が一般大衆の鑑賞の環境づくりをする。バックアップする意味で、その鑑賞に役立つ情報を提供するということはあるわけなんですよ。作家はつくったものを直感で見ていただければそれでいい、何もいうことはない――これは一つの真実です。一方、学芸員というのは鑑賞者と作者の間にいるわけですから、その人たちの役割というのがあって、それをどう果たすべきかというのが美術館の学芸員にとって非常に大きな問題になっています。理解を助ける情報を提供する環境づくりをする、しかし、固定観念を与えたりして邪魔をしてはいけないわけなんです。作品分析じゃなくてね、布穀会見に行ったら元気が出るよっていう、こういうことでもいいですよ。非常に単純に分かりやすい言葉でいえば、「あゝ、そういえば今落ち込んでるから行ってみようかな」とか。そこから先は、それぞれの立場で癒しになる人もいるだろうし、闘争心の沸く人もいるかもしれないし…。